市民感覚についての自己分析

 えーっと、このブログを読んでる人は私が役所マンセーな人だと思うかも知れないけれど、記憶をたどる限り、役所に歓迎されるような人物だった事はあまりないんじゃないかなぁ。
 一市民として生きていれば、行政との軋轢ってのはある程度ある。いけすかないのにお願いをしなくちゃいけなかったり、お互いの目的がある程度一致して、役人にとっても自分にとっても満足な結果が出る事もあれば、文句を言いにいって負けて帰った経験もある。ヤバい建物の建築確認をひっくり返した事もある。
 一番ひどい時は交渉が長引いて決裂し、「おまえなんか市民じゃない」とまで言われ、市民税の納付決定通知に「市民じゃないらしいので市民税は払いません」と不服申し立てをしたことすらある。

 大抵の場合、行政と交渉する時には結構下調べをしてから行く。お互いの目的が一致する場合にも論破して何とかしなきゃいけない場合でもお互いに時間の節約になる。公務員と交渉する以上それは「市民が金を出して買った公務員の労働時間」を消費するという行為であって、タダではないのだ。
 きちんと下調べがしてあれば、こちらに誤解がある場合でも、相手に誤解や解釈ミスがある場合でも解決が早い。

 少なくとも年金では2回とも負けた。私には未加入期間があるが、これは市役所の能力を超えた事務量で処理がパンクしていたため加入申込を断られた*1。また、厚生年金に加入する配偶者が居て収入がない時に「厚生年金加入者の『妻』ではない」ために3号被保険者になれなかった。*2

 前者では、私が粘って加入する事が出来たとしても、その分一人の事務員の手がとられて、だれかの加入が遅れるような事態で、「個人としての勝利であったとしても市民としての勝ちはない」ような状態だった。個人としてはそれほど大きな利益があるようにも見えなかったし、市民としては利益はない。だから闘う事をあきらめた。

 ちょっとこれが本質的なのかな、と思う。もちろん自分の利害のために個人としての要求はやるんだけど、「市民としての要求」は個人を超えた利益を求めるものとして自分の中で区別している気がする。

 ちょっと調べて、ちょっと考えて、自分も含めて多くの人にメリットがあるかどうか、これに従うのが市民感覚かもね。どっかの人たちみたいに調べもしない、考えもしないようなのは......「新*3市民感覚」とか名付けて使い分けるのがいいんだろうか。

余談:
年金の事務手続処理プロセスの破綻で、実際に経済的不利益が将来生じる事が決まってしまった身としては、パンクは避けて欲しいという思いがあるのだけど、年金についてはシバキ主義が横行してちっとも事態が改善してない気がする。どうみてもパンクの連続です。

*1:マジで加入申請の紙すら足りない状態。そりゃそうだ、いきなり20歳以上の大学生全員を加入させなくてはいけなくなったんだもの。通常の3倍を超える処理量だ。私は24歳の大学院生だったが、当時の厚生省は大学生と新成人の加入を優先するよう指示していたようだ。

*2:当時の厚生省は自治体向けに厚生年金加入者の妻である事を確認するように公文書で要求していたので、なんというか、いやはや。あきれてあきらめた。そこで月一万円ちょっと免除されるより仕事見つける事が大事だったし。

*3:新左翼の「新」ね。