なぜ食品に関わる偽装は許されないのか

食品の偽装がこれほどまでに許されない事についてちょっと考えた。
 安全性という意味ではさほどの問題を感じていない。吉兆にしろ、地鶏にしろ、白い恋人たちにしろ、赤福にしろ、我が国では珍しくない食事に起因する死をもたらしてはいないように見えるし、重大な健康被害をもたらしたという情報には触れていない。雪印の事件とは大きく違う。個人的に思うのだが、食中毒という事態を招いた雪印が存続する事を願っていたし、今でも「雪印があったらなぁ」と残念に思っている。
 食品の偽装が許されないのは安全性の問題ではない。ではどのような問題なのか。
 ちょっと考えてみたのだが、我々は食品を飢えを満たすためや味覚の欲求を充足させるためだけに買うのだろうか。おそらく違う。
 私たちが食品に支払う対価は、小売、仲卸、市場、産地、生産者というチェーンの中で誰に分配されるのだろうか?
 以前このブログ*1で触れたように、食品業界における情報の価値は非常に高い。1bitあたりの単価で考えると食品業界以上に高値で情報を取引している業界は少ないとすら思う。
 我々は、食品そのものの価値以上に食品と一緒に流通している情報に金を払っている。
 消費者が対価を支払っているのに、情報が偽装であること。これはどう考えても叩かれてしかるべきじゃないか。
 米の単価というのはものすごい差がでているが、1990年頃、最高級のコシヒカリササニシキ滋賀県産ニホンバレ、関東地方の標準価格米、タイの長粒米を用意して、一般の人に食味の良否を聞いた事がある。タイ米は多少の違和感が感じられるようであったが、国産米については品種や産地より、炊いてからの時間の方がはるかに大きく食味を支配していたように思う。(炊いてから時間がたった米だけだとコシヒカリササニシキの評点が上がる傾向があったかもしれない。)いずれにせよ、大抵の人は炊きたてであればどの米でも満足してくれていたように思う。
 米不足の年にタイ米が捨てられたのはマスコミが食味が劣ると喧伝して、そういう情報とともに流通してしまったからだろうと思う。
 我が国はおいしいものを用意するだけではおいしいと思ってもらえない、情報とセットでなければおいしく食品を食べられない国なのである。
 食品関係の業種は、単なる製造業、運輸業でなく、情報流通業者なのだと自覚すべきなんだろう。食品偽装が起きる背景の一つは、食品の流通に関わる事業者が自分たちが「何を売っているか」をわかってなかった事に起因しているのではないかと思う。*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20041215#p1

*2:市乳から雪印というブランドが失われた事は非常に惜しい。品質が非常に不安定な農協牛乳と一緒くたにしたメグミルクなんてブランドでは市乳の品質にあまり意味を持たないのだ。今はタカナシの牛乳を購入している。