生きるための学問と神の学問

 知る限りの知識を動員して、どう生きるかを考える事を「生きるための学問」と呼ぶ事にする。たとえば都市計画や自動車工学や政策科学なんてのはそういう学問なんだと思う。
 これに対して、真実の探求を第一にして、悟りが開かれればいい(あとはうまくいく)とするのは、言わば「神の学問」とでも言うべきか。

 アンチ地球温暖化の言説には、多く「具体的なデータの提示が」「仮説ばかり」という批判が含まれているように思う。そういう人はおそらく「学問は『神の学問』から『生きるための学問』へと移行するものだ」という前提を置いているのだろう。

 温暖化よりも、もうちょっと身近なエコロジー生態学)の話をする。
たとえば「野生生物が絶滅しそうなときにどうするか」、なんて課題がある時にはよく生態学者が「データが集まり事実がわかるまで何もするべきではない」みたいな事をいう。で、保護区を設定してその場所への手出しを一切禁止したりする。
 ところが、実際には人為的影響がひろく行き届いている日本列島のような場所では、人の手出しを停止する事そのものが激烈な環境変化である。現実には我が国が直面している生物多様性の課題は日本列島への人為的関与頻度が減少した事に起因しているし、ある種の天然記念物の絶滅の理由は「保護された事」そのものだ*1。彼らの「神の学問」はそれだけで「生きるために有用な」ところまでは到達していない気がする。

 よくわからなくても、やらなきゃいけない事はあるし、それを整理するのにはたとえ「神の学問の成果」が与えられていなくても「生きるための学問」をやらなきゃいけない。私は地球温暖化説を「どう生きるのかを考えるために」受け入れているのであって、「神の学問」としてあがめたりはしていない気がする。*2

 で、学問の発展を見ていて最初から「神の学問」として産まれたもので、「生きるための学問」としてありがたいようなものってそんなにない。まずは「生きるための学問」として産まれて、それから「神の学問」になっていったものがほとんどなんじゃないか?生きるために必要なら「まだ『神の学問』じゃないから」とか気にしてもしょうがないし。

 某所での論争を見て、経済学が「神の学問」になりかかってるような気がするけど、みなさんそれほど信心深く見えないんだよなぁ*3

*1:同じ種で幸運にも保護対象にならなかった地域では元気に生き延びていたりする

*2:繰り返すけれど、1988年以前はちと話が別。

*3:収入の10%くらいを学問のために寄進する人をさほど見かけないような状況