暴論:地域社会の空間について考察する

sarasaさんのところで、「警察と地域の問題」という言葉遣いをした。厳密には地域社会と呼ばれるべきだろう。
http://d.hatena.ne.jp/sarasa/20041112
地域社会は実在するだろうか?と時々考えている。
なにを馬鹿な事を考えているのか、と思われるかもしれないが、結構まじめに「地域社会の不存在」または「地域社会の絶滅」を宣言しなくてはならない地域が多い状態、に近いのではないかと思うのだ。
 なぜそう思うのか、であるが、「地域社会に対応する空間」が存在しない地域が増えてきたからだ。簡単に言うと地域社会は「どこに」あるのか?という問いかけをして、見つからない地域が増えてきたということである。社会は物理的な実体と結びついて初めて存在していると思う。例えば日本の社会を考えたとき、日本の国土と不可分に結びついている。社会と結びついている実体は最低限でも、エネルギーと位置という情報が特定されうる物理性をもっているように思う。
 単純に考えると、地域と「地域社会の空間」は一致しそうに思える。たとえば、千代田区1番町という地域を切り分ければそれに対応する地域社会が存在すると考えてみる。明らかに間違いだと気づく、たとえば千代田区1番町に誰もいなくても、地域社会がありうることになってしまうし、1番町に関わる人々が相互になんらの連帯もしていなくても地域社会がありうることになってしまう。つまり、その考え方は地域社会を物理で言えば「観測値」の地位におとしめる物であり、実体として観測対象としていない。つまり、この考え方にたった時点ですでに地域社会は消滅している。
 地域社会とは、「利害関係や血縁とは別に、日常的に空間を共有する事によって人と人が関わる。そのような個人間の関係の総体」と定義しなおしてみよう。今度は個人が手がかりとなって、個人別に「地域社会」が実体として見えそうな気がする。自分を例にした考察は誰にでも可能だ。日常的に空間を共有するのは家族以外に誰か、その人とどのような関係かを総合すれば良い。そして、強い結びつきを共有する個人をくくれば地域社会の実体となる。地域社会でメンバー同士が共有する空間が地域社会に対応する空間である。
 ここまで整理して、日本の実在の都市に適用してみよう。日常的に人の居ない空間と日常的に占有されている空間とを除き、共有されうる空間(=地域社会が存在しうる空間)を地図上に抽出できる。ちょっと地図を見れば、この時点で「共有されうる空間」はほぼ「道路しかない」事に気づくだろう。(誤差の範囲程度に公園・広場・公民館等がある)
 つまり、この思考実験の結果、地域社会はほぼ道路にだけに存在しうる、と結論づけられた。あとは命題の答えを出すのは簡単で、道路上において、人々が相互に関係性をもつような様式で空間を共有しているかどうかの問題である。このような観点で、路上を観測すればすぐに分かることだが、ある程度の関係性は路上に見られるが、道路の利用において優占しているのが自動車による占有的利用であることが多い。すなわち、一般に道路上における人間関係は希薄であると言える。
 ここまでの流れを総合すると、日本の都市では地域社会の空間は道路上にほぼ対応するが、道路上は人間関係が希薄であると結論づけられ、命題「地域社会は存在しない」または「地域社会は絶滅した」はほぼあっているような気がする。
 以上の仮説が正しければ、道路交通法において道路が一般に車道と位置づけられたとき、すでに地域社会は死刑宣告を受け、今日着々と執行されていると理解した方がいいかもしれない。
 ここまで読んで「では地域社会を存続させるための空間とは何か」、と考えられた方には
ルドフスキーの「人間のための街路」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4306070891/250-1410488-4779437)をお勧めする。
追記:
モータリゼーションという言葉の成立以来、このような論説は尽きないが、自分なりに現時点の自分の地域社会を論考した結果である。同様のよりよい思考実験を提案されていた方があれば申し訳ない。
追記2:
社会というのはしぶといので、「地域社会に育った構成員」が居る限り簡単には死なない。ただし、新たな構成員が地域社会に育たなければ、存続は不可能である。