防災の話をした

防災の話をしてほしいと依頼があって、一時間ほど市民団体の人と話をした。
正直、今の自分にそんな仕事に耐える力があるのかは大いに疑問だった。写真の提供を頼まれてアルバムをめくって、涙が止まらなかった事もある。前に行政に頼まれて大勢の前で話をしたときには、いろいろな感情が湧き出て、本当に言いたかった事が言えなかった。

今日の話の論点は、市民として防災についてどう考えるべきか、ということだったので、頓服のトランキライザーを飲み、あらかじめ言うべき事を考えて、前回言えなかった事まで言及しようと思った。
もう一度トランキライザーを追加して、今回話をしたのは
「災害は、想定外の事が起こるのであって、その場では責任ある人もただの人も、人間には耐えられないような、あるいは許されないような選択を迫られるので、日頃から、自分にとって何が大事かをよく考えておきましょう。」ということ。
「もちろん、あきらめも肝心で、持ち出せる可能性が残されない可能性もある。非常持ち出し袋を持っていくのも大事かもしれないけれど、たいして役に立たないかもしれないし、それよりは思い切って遠くまで避難できる状況を作るのも大事です。」「自分にとって大事なものを守れたら人を助ける余裕も生まれます。」「避難用品を持っていく余裕があるのなら、一番最初に必要になりそうなものを持ってください、この季節なら飲料水や薬品より先に毛布が必要になるでしょう」
「避難したら、役所の人も住民も想定外の事態に対応しなくてはならないので、時間をかけずにコミュニケーションを取れるように掲示板等があるといいでしょう。」「避難所の外にも人がいる可能性も忘れずに。」「力が残っている人が組織的に動けば避難生活は格段によくなる。」なんてこと。
それから、最後に前回は言えなかった、「生きていてよかったと思えるように努力するのだという事を忘れないでください」という事。「寝てない人は生きていてよかったと思えなくなっていきます。生きていてよかったと思えるためには、無理をせず、よく寝て、周りの人とよく話をすることも大事です」
体験を交えながらそんな話をした。
体験を交えているからいろんなものを思い出して、泣きそうだった。


ぼりぼりと音をたてて崩れていく新幹線の高架。
父に電話がつながった時に、被害の程度を理解してもらうために筆算で積分計算した地震発生当初の死者数1000人〜2000人、最大死者想定2万人の数字。
初めて夜間作業ボランティアに出たとき見た、半壊した市役所の薄暗いロビーで顔面蒼白な5、60人の行列。火葬の受付をだまって待つ人々だ。
ボランティアの仕事は援助物資の積み降ろしと分類、山積みの賞味期限切れ食品の廃棄だった。防災担当の職員が見ているテレビでは「避難所ではまだ食料も十分に ......」。
何日かして、仕事で市内に入り、焼け跡をあるいていて、「まだそこにうちの子がおるんです、踏まないでください」という震えた声。
翌日、仕事に向かう電車の中で失神した僕を、助け起こしてくれた男性。
いつも娘にってあんぱんをおまけにくれたパン屋のおばさんは、助からなかった。「こいつはまだ食べられませんよ」「おかあさんがたべればいいんだよ」「いつもすいません」そんな話をしたのは地震の12時間前。パン職人の親父さんは、店を片付ける気力もなく、親戚のすすめで仏門に入ったらしい。一年ほどの間はひしゃげたシャッターと壁からぶら下がったクーラーの室外機を見て暮らしていた。
4日目に、一緒に仕事をしたことのある社内結婚したての夫婦が崩れ落ちた新居から助け出された。社長さんは喜んで僕にも教えてくれたが、5時間後、圧迫されていた部分の細胞の中身が血中に溶け出して容態が急変した。病院で二人とも亡くなった。
二週間目位から、自殺のニュースが増えてきた。毎日のように何人かの自殺が社会面に載っていた。


失われたものに、こんなにとらわれているのに、ひどい嘘つきですね。


一人になってから少しだけ泣いて、気のあう同僚と馬鹿話をして、帰りました。