JR

 脱線事故については私の知っている情報は限られているし、心情的にもまだまだ言及しにくい状況である。だが、今考えていることは、三歩歩けば忘れてしまうかもしれない。
 一部のマスコミは責任のありそうな個人を攻撃する努力をしているけれど、被害を受けた訳でもない人が組織的にリンチしているようでやはり違和感を感じてしまう。商売なのか、暴君気取りなのかはわかんないけれど。
 とりあえず、私が事件について思うのは個人の資質や過失などでなく、どのような状況がこの事故を「おこるべくして起きた事故」にしているか、ということである。我ながら稚拙だけれど、書き留めておく。

オーバーラン

 オーバーランについて何度も耳にするが、私の経験ではJRでは珍しくない。そして、国鉄時代は珍しかったのだ。
 国鉄がJRになるときには運転士をふくめ大量の人員整理を迫られていた。そこでどのような人員整理が行われたかと言うと職員の所属労組によって選抜するというやり方である。具体的には国労所属ならばクビ、動労所属ならば雇用継続という形がとられた。
 それによって大量の配置転換がおき、私などでも具体的にオーバーランを何度も体験できるほど技量の粗悪さが露呈した。いまいちど思うが、やはり技量や適性で選抜されるべきではなかっただろうか?
 十分な技量の運転士がいなくても運転するというのは思い起こすとすさまじい倫理の崩壊だ。サービス競争激化以前にそのような倫理の崩壊があったとすれば、今回の事故が「おこるべくして起きた事故」と言ってもいいのではないか、という気分になるのだ。

精神的奴隷

 もうひとつJRの成立でできあがったのは、つぶしのきかない被雇用者という側面である。JRで今の仕事を奪われたら決定的に不幸であり、他のどこへも行けないと言う雰囲気が、国鉄からJRに雇用されなかった人が露出されるたびに、強化されたのではないか?と思うのだ。これは一種の奴隷制だ。見せしめは、奴隷制の維持に対して非常に効果的な意味をもつ。そしてプレッシャーをかけ、忠誠を確認するだけの指導の存在も報道されている。報道されている通りのものかどうかはわからないけれど、どうも奴隷制臭いにおいがぷんぷんしているのだ。労働の対価(給与)が支払われるかどうかという問題ではない。自分に適性がないとか、もう嫌だと思ったときに職種転換や転職が自由に考えられるかどうかの問題なのだ。そのような精神の自由がない人が運転している電車が今日も走っているとしたら、やはり事故は「起こるべくして起きた」のであって、今日も「起きるかもしれない」と思える。
 終身雇用制の崩壊という事が言われるけれど、それと同時に訳の分からない奴隷制もどきが横行している気がする。
 個人的にはつぶしがきく社会の方がつぶしがきかない社会より安全だと言う気がするのだ。