少子化・晩婚化・晩産化

基本的に専門にしている事についてはここでは書かないので、専門外からの罵詈雑言です。信用しないように。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060303-00000139-jij-pol
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060308-00000085-jij-soci

なんて記事が話題になっているが、私は日本の人口学のテーゼの一つである「晩婚化・晩産化」が少子化に繋がっているという理解の仕方が嫌いである。「少子化」と「晩婚化・晩産化」はどちらが原因であるとかでなく、同一の現象の呼び名を変えただけに見えるからだ。あるいは出生数低下は親世代の人口減と「晩婚化・晩産化」に分解でき、出生率の低下は「晩婚化・晩産化」と等価である、程度の事だと思っている。
 また、「晩婚化・晩産化」には今は独身とか今は子供を生んでいない女性が「いつか生むに違いない」という期待をあらわにしている用語で、「○○なはず」、という検証されていない仮説部分を除いた実際の現象は「非婚化」や「不産化」といった事だと思うのだ。
 想像してほしいが、今35才の世代がそのライフステージを通じてあらゆる機会で前の世代よりもより結婚しない方向、より子供を産まない方向の意思決定をしていれば、婚姻年齢と出生年齢は前世代より高くならないだろうか?現象が「非婚化・不産化」だとしても統計上の問題の現れ方は「晩婚化・晩産化」と異ならないのではないだろうか。
 さらに政府やマスコミは(女性が経済的に自立したとか、夫の家事能力がないとか)犯人探しにやっきになって、効果的な対策を打ち出す事にはあまり熱心でないように見えるあたりも不信感がつのるところである。
 そもそも、この50年間二世代ほどの間に出生数を抑制する技術と出生数を増加させる技術、いずれが発達したのか考えてみるといい。優生保護法、避妊と家族計画の普及の影響力と高年齢出産の安全度の上昇や人工授精などの効果の大きさを見ると、圧倒的に出生数の抑制技術の方が安価かつ力があると思わざるを得ない。出生に関する限り、「産まない」を選択する自由度は飛躍的に上がった、しかし「産みたい」を支える技術は大して進歩していないし、給与所得者のメジアン程度の収入ではとても払えないほど高価である気がする。低所得者の私なら不妊治療の治療費を負担していたらとても子供なんて持てない。

 計量経済学で用いられる確率効用モデルというある種の行動モデルでは、個人の選択行動は効用を最大化するように決定されると考え、効用を決定するのは個人の属性、置かれた環境、選択した結果の特性などの要因が関わっていると考える。
 こういうモデルは交通政策の立案やマーケティングなどに用いられるわけだが、自由主義経済の元でそのような政策設計に用いる場合は、個人の属性は尊重されそこに政府は介入しない。
 そして、置かれた環境(社会経済要因Socio-Economic Factor)と選択結果の特性が政府によって介入可能な分野であると考えるのが普通だ。たとえば交通問題では低所得層に所得移転を行った場合は社会経済要因の変化に繋がるし、バスや電車などマストランジットの技術革新による高速化は選択結果の特性を変化させ、自転車とマストランジットや自家用車とマストランジットの利用者数を変化させるだろう。そういうものがある程度予測可能になり、投入できる政策の選択肢の優劣を議論できる事になる。

 しかしながら、婚姻-非婚、出産-不産についての包括的なモデルを作成して政策を検討した形跡は残念ながら見えない。nested logitモデルを目的とする調査質問票作成のための予備調査のような調査が延々続いている。
 断続的に表面化する分析は犯人探し以上の物はないし、出てくる政策は優劣の議論のしようがない。(政治家の自由度を縛らないようにそうしているのだろうか?)
 厚生労働省だけを責めるつもりはない。政治主導を唱え、政策秘書の資格要件の一つに博士号を挙げながら家族の採用を選択しがちな政治家もそれができていないのだから。

 ともあれ、我々の政府は専業主婦に対する免税措置を維持しながら出生に対しては冷淡なまま時は過ぎ、人口は減り始めた。

人口学的な立場ではともかく、政策科学的には危うい仮説を含んだ「晩婚化・晩産化」概念をいったん隅に追いやって、可能な政策の検討をしてほしいものである。