「ダメな議論」と「水からの伝言」

「ダメな議論」読了しました。
昨夜は失礼な話を振ってしまったのですが、著者の飯田先生の言いたい事は該当部分について十分に私に伝わっています。
 伝わっている事は承知の上で、それでも引っかかってしまう阿呆がいるという事で阿呆としての生き様を書いているだけなので、それはまた「ダメな議論」なのかなと思います。
(伝わるように書く、その意欲を持ち、実現しているのだから、それはすばらしい事と認めるべきですよね。)
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20061113#p1
に訂正速報の労をとっていただいて、身に余る光栄です。
 批判や吟味をしながら読んで、それでも飯田先生に対して、尊敬の念を抱かざるを得ないです。
個人的には、いわゆる文系の議論と同様に、理系の議論においても有害な論説というのは日々生産され、消費されているのが現状で、また、消費がある事によって再生産されているのも感じていて、それを見抜く力としても、飯田先生の本は有用であると感じています。

と、べた褒めした所で、ちょっとマイナス点を与えておきます。
実は、中途から著者にシンパシー、というか、戦友意識のようなものが芽生えてしまって、客観的に読むのが困難になった事を告白しておきます。術中にはまったのかもしれません。
 この本で著者が相手にしているのは「常識」です。おそらくは、良好な常識の形成がより良好な政策の土壌として今求められているものだ、という意識をお持ちなのではないのかと勝手ながら思い込んでしまったのです。
 実は、飯田先生のように新書を書いたわけでもなく、権威もなく、分野も、生きざまも、全く違うのですが*1、少なくとも常識を相手にする必要性については、この十年強く意識し続けてきました。そのせいかと思います。

そういうわけで、多少べた褒めから差し引いて頂けると幸いです。




さて、科学と常識と言えば「水からの伝言」がホットみたいですね。
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000172.html
「『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?」
↑音極道茶室さんもとりあげてた。

物理学者の『「水からの伝言」を信じないでください』という記事に対し

唯一、id:ipsychic氏のコメントにあった

今,現に信じている人にはまったく効果が無い駄文。

というのに同意。結局この記事は、「ハナから信じてない人」が溜飲を下げる程度の説得力しかない。

と痛烈に批判。

やればいいじゃん反証実験。
その結果を示すだけで、ごたくを並べなくとも完膚なきまでに否定できるじゃん。

と、反証実験を薦めている。

で、コメント欄を汚させてもらって

科学者としてどうかって事になると、反証実験のしようがないんだけどさ。
でも、人として、今日学校でこの話聞かされてきた小学生にであった時に、反証実験を試みてるデータを示してる人がいるとうれしいかもね。
たぶん、それもまた科学じゃないんだろうけど。

と書いたら、「ふぉーりん・あとにー」さんが
http://www.ny47th.com/fallin_attorney/archives/2006/11/10-123807.php
で支持してくれた。

恥ずかしながらそれほど大した事は言ってない。
私は、基礎科学者は基礎科学者の立場にとどまれば実験しないだろうし、それはそれで科学者として正しい態度だと認めている。ついでに、基礎科学から産まれる膨大な言説のうち即真実で有用なものと理解可能なものは少なく、真実で有害なものもあれば、虚偽で無害なもの、もちろん虚偽かつ有害なものもたくさんあって、大半が「真実かもしれないが有害でも有益ともわからない」でもしょうがないとも思う。
 でも、科学者的にはそうかもしれないけれど、科学者がどう思おうと、基礎科学は何かに応用されて初めて「基礎」科学なのである。普通はそれが今日でも良いし、1000年先でも良い。応用先がなんでも良い。

 しかし、「水からの伝言」は今現在のコンテンポラリーな問題ではないのだろうか?基礎科学者がコンテンポラリーな話題に踏み込んだ以上、コンテンポラリーに応用されなくては意義がないだろう。別に応用が応用科学である必要もない。役に立つか立たないか、単純にそれだけの事だ。基礎科学の一部を取り出した時に意義がないのは珍しい事じゃないけど。

飯田先生は政策科学者として、かなり「コンテンポラリーな課題」にセンシティブな人なんだろうな、そういう人はどう思うのかな?なんてちょっと思ったよ。

*1:分野も違うと書いちゃったけど、経済学に全くノータッチってわけでもないか.....