ロゴスとパトス

http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20080318#p1
↑を読んで思った事。
いきなり文章を追加しますが、上記記事に対する非難の気持ちよりは自己批判の気持ちの方が強い。人のふり見て我がふり見直したら素っ裸みたいな気持ちで書いた。


まず、国会には統治能力がないという事。

「君臨すれども統治せず」というのはヴィクトリア女王*1立憲君主主義の事らしいけど、制度をきちんとすれば、その上に君臨すればよいのであって、統治は制度にまかせればいいって事だと思う。

現在、省庁再編後の日本は国会が政府を全面的に直接統治する。国会が日銀を統治する。そして国民が選挙を通じて国会を統治する。それが今の日本の制度だ。
マスコミはそれを正しいと言ったし、国民の多数はそれを支持した。*2だから正統性はある。しかし正統性がある事と能力がある事は全く別の問題だ。

議員の人材は枯渇するし、議員外からの人選すら出来ないし、正直に言えば統治に失敗しているように見える。

今回の総裁人事で飛び交った言葉には若干のパトスは感じるけどロゴスは感じられなかった。だからロゴスで反論しようとしても無駄だ。声のでかい方が勝つし、声の大きさを比較出来ない2カ所に別れてのど自慢大会をやってれば、決まらなくてあたりまえだ。

学問を学ぶ事の価値というのは、ロゴスに関しては二つある気がする。第一にロゴスを受け取る能力が豊かになる事。第二にロゴスを発する能力が獲得される事。第二の能力は第一の能力の上にしか成立しない。

学位がなにを表すかというと15年前の日本の学位だと学士はロゴスを受け取る能力がある事、修士はロゴスを発する能力があること、博士は見事なロゴスを発した実績がある先達である事を示した。
 噂では当時も今もアメリカではロゴスを発する能力があれば博士で、博士でなければ公式の場でロゴスを発しても聞いてもらえないそうだけど。そして奴らはけして国際的ではないので、国際会議でも同じ事をやる。しかたなくアメリカ基準を日本に導入しようとしているせいで今の日本ではぐちゃぐちゃで学位は何も表現していない。

私は経済学については、学んでロゴスを受け取る能力を少しづつ獲得しようとしている所なので、ロゴスを発する能力は極めて限定的にしかないわけだ。

第二の能力について、経済学者のみなさんや、リフレ派の多くの人が新副総裁の過去の実績を見て、彼らの能力に期待していない事はよくわかった。

だけれど、たとえロゴスの関与しない声の大きさ比べで決まったにせよ、第一の能力について現状より少しでもマシになるのなら、それはそれで評価し、彼らにロゴスをぶつけ続けるべきなんじゃないかと思うのだ。それが学ぶ事を尊ぶ立場というものだろう。やのさんはえらいなぁ*3

追記:
雑感でポイントなんぞないですよ。まして絞ってもないし。
しいて言えば、
「正統性と能力は別の問題」
「知を能力に活かして欲しければ理性的な言葉で語り続ける必要はある」
「自分の書いた事を見直したら、なんか汚い言葉で語ってるなぁ」
「それにひきかえ矢野さんのはパトスに裏打ちされたロゴスって感じでかっこいいなぁ」
みたいな事が言いたかったんじゃないですか。

*1:参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%A5%B3%E7%8E%8B) 

*2:一国民としてそれでうまく行くなんて思ったら自信過剰だと思ってたので私は支持してないけど。

*3:http://d.hatena.ne.jp/koiti_yano/20080318/p1