北条家が滝山城から八王子城に拠点を移した事についての考察(考えただけ)

またまたroi_dantonさんのところに乱入。しかも戦国時代と言うまったく不得手な分野。

http://d.hatena.ne.jp/roi_danton/20080505#p1

八王子城は立派だったが、滝山城から引っ越す理由はあまり分からない。

コメント欄で、おそらく上野原→和田峠ロジスティクスに難があり、敵の侵入はあっても小規模にとどまる。が、小仏峠、あるいは秋川沿いに侵入する敵は十分にやっかいになる。小仏からの敵が拠点を確保する前に叩ける位置に城がほしかったのでは、のような事を書いてみた。

ちょっと考えてみると、いろいろ興味深い所もあって自分でもエントリしてみる。

まず、北条家がどんな場所を守りたかったかだけど、当時の武蔵野国の生産力は、今よりずっと山側によっていたのではないか、という事。
水田耕作と定住の確保のためには水が必須だから、水が得にくい台地面上は実は「一所懸命」の要ではなく、また、河川沿いの低湿地も定住や耕作に難があったろう。
江戸より古い時代の多摩川には水害の記録があまりないそうで、それは多摩川が暴れるような所には村落もあまりなかったからのようだ。江戸期以降の利水、排水の整備が一変させる事になるが、まだこの時代の低地と台地は生産力の中心になってない気がする。

 もしそうであれば、武家の基盤である農業の中心は、水と定住場所の得られる谷部と扇状地の扇端ということになる。八王子周辺で考えると、例えば恩方であり、弐分方であり、廿里、駒木野だったのかもしれない。
 だとすると、千人町*1あたりに平城を設けるよりも、山城にも合理性があったかもしれない。
 北条の武蔵支配の拠点は江戸城津久井城、小机城,鉢形城、岩付城、河越城といったところだけど、江戸と川越、岩槻は台地面が浸食された谷部が集中する所、津久井、小机、鉢形、八王子、滝山は扇状地の多い丘陵地の城だ。

 当時の定住人口の偏在が大域的な拠点の分布に影響していそうな気がする。戦国時代の西日本では面的な定住がすでに進行していたのに対して、関東では点的、線的で低密度な土地利用分布があったのではないだろうか。

 北条氏は武田氏に攻められた時に、敵主力は輸送路を確保しやすい北関東から侵入し、機動的な小部隊が西から北条側の連携を寸断し、拠点を孤立させるという戦略の怖さが身にしみた。
 そこで、南(津久井、小机)との連携が途切れない北向きの防衛ラインを構築する必要に迫られたのじゃないだろうか。

 滝山城は秋川上流からの侵入者と多摩川の北の侵入者を一度に相手にできて、南側に補給線を確保する形で、小仏からの侵入者は想定外だった。

 自然の地勢を利用するとすれば、川か山を前線にすることになる。北条は滝山→八王子で想定防衛ラインを多摩川-秋川ではなく多摩川ー浅川ー北浅川に変更したのかもしれない。
 滝山城では秋川沿いの侵入者と多摩川北岸の侵入者の合流を阻止して個別撃破するのは難しいし、秋川上流をとられたら地形を活かした前線の維持も難しい。
 八王子城なら敵主力を食い止めつつ小仏を抑えるのはやりやすい。

自分が北条の守備隊で滝山城が主城だったら嫌だなあとおもうのは、北浅川。
扇状地があるという事は、一つの谷からあっちゃこっちゃに洪水が出て、まんべんなく土砂が堆積するという事。
今でも滝山城址と八王子城址の間は洪水注意地帯だし。
滝山城はお天道様次第で津久井、小机の味方勢力から孤立しちゃう。

もし、地元武士勢の家族(人質)を入れた城が孤立したら、前線を維持できっこないような気がします。

ところでroi_dantonさん、↓こんなデジカメどうですか?

http://www.ricoh.co.jp/dc/caplio/500se/point.html

*1:幕府が同心を置いた江戸時代の八王子の軍事拠点