結果としての右翼、左翼とそうでない雑魚

すなふきんさんにご回答をいただいたようなので、
 http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080517/1211008128

しかもこのことは政治・経済とは一見関係なさそうな日常生活についての事柄、職業の選び方や仕事に対する態度とか対人関係のあり方、子供への教育方針*2、趣味嗜好などの点にも及びそうで、たとえば(あくまで大雑把に言っての話で例外もあるが)政治的に右の傾向を持つ人は読書よりスポーツを(やることを)好む*3とかいった類のことは思い当たるのではないだろうか。あるいは経営者や実業家と言われる人たちのほとんど全てが右の心性を持つことも無視できない事実だ。

 どうかなぁ、ユートピア的なマルキストとして有名なウィリアム・モリスなんか実生活では立派な経営者ですよ。あるいは資本主義的な枠組みの中で社会主義的な都市政策が実現できる事を実証したエベネザーハワード卿なんかも経営者として面白い。

数に注目しないで、ユニークで力のある右翼、左翼の思想家や実務家に限って言うと、あんまり偏りは感じないんだけどね。
 例えば田中角栄と言う人は保守党の政治家だけど、あまり視野狭窄な人じゃなくて、左翼的な事もいっぱいやってるよね。保守の枠組みでどれだけ左翼を満足させるか、みたいな。

 全体をいろんな側面から見た上で、結果として「右(左)な政策セットをとる」、と「手段を選択した」生き方の人っていろいろだと思いますよ。パースペクティブからビジョンを取り出した時に、それが右より政策だったり左より政策だったりするのは、結果であってそれなりの合理性をもって判断されてると思います。

 私は広大なパースペクティブを持った上で、部分を特定してビジョンを作って右なり左なりに偏った政策を出してくる人は右翼でも左翼でも尊敬してしまいます。政策を受け入れるかどうかはまた別の問題として。

 他方でマスに注目した時に右翼だろうと左翼だろうと極端だけどオリジナリティのない話をする人の多く(単に視野狭窄な人)は仕事とか対人関係とか教育方針とかスポーツとかに対する態度に偏りを感じますね。

 スポーツに対する態度というか、シバキ主義的に肉体を極度に酷使するのはいろんな国でやられてる「他人の考えを受け入れやすくする方法の一つ」*1ですので、そういう人にとっては指導者の偏りはそのまんまその人の偏りになりがちなんだと思います。

 単に偏狭なだけで右や左に偏った政治家がいたとしたら、大衆政治家じゃなくて政治家大衆って言った方が似つかわしくて、パースペクティブを形成するという体験を持たずに先人のビジョンから政策判断してるのかもしれない。
 そういう大衆としてのあり方を自己肯定できるとしたら、リベラルなものになんかなり得ないんで、左翼としてやってくより右翼としてやってく方が楽でしょうね。*2

 「大衆的な政治家」をまとめる指導者がいたとしたら、ガノタな言い方で「貴公はヒトラーの尻尾だな」と言ってみたくなりますね*3

*1:オウム真理教もそうだし、特に右翼的政治家をたくさん輩出(排出?)している某私塾もひょっとしたらそうかも。

*2:ただ、そういう右傾化の要素を一番強く感じた事があるのは、自民党よりむしろ末期の社会党だったかもしれない。

*3:放映当時は大平内閣時代か、すでにヒットラーの尻尾を揶揄する時代だったのかな、揶揄する対象としては首相じゃない誰かだったのかもね。