イデオロギーとは

政治的な人がある種の思考を受け入れにくく、視野狭窄に陥っているありかたの事であって、イデオロギーそのものは何の役にも立たない。

共産主義と官僚的保守主義は一個の人格に矛盾なく両立しうる。

官僚的保守主義とは現体制を変化させるものを受け入れにくい事。

保守的歴史主義とは実績のない事を受け入れにくい事。

自由主義とは合理的知性は受け入れるが不合理な現実は受け入れにくい事。

共産主義とは資本主義を受け入れにくい事。

ファシズムとは合理的知性を受け入れにくい事。


というのがマンハイムの整理と勝手に解釈している。*1

さて、すなふきんさんのエントリだけれど、

[雑感]「類は友を呼ぶ」のはなぜか?
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080516/1210911186

右と左、あるいは保守とリベラルという代表的な対立軸が世の中の諸問題についての立場の違いを考える上で「概ねの指標」になるということについては異論はない。論理的にはたとえば右派が警察や軍事での政府の役割を重視するのに対し、左派は社会保障などへの政府の介入を支持するといったぐあいに、どちらも「政府介入」なので同じじゃないか?という考え方も成り立つが、実際の現象面を見ると結局政府介入はどのような社会制度でも国家が存在する以上避けられないもので、むしろ政府介入の「程度」よりその「内容」についての考察が必要なのだなと思い至った。

「なんに対して聞く耳を持たないか」にすぎない事を主要な対立軸にしているのならば、対立する勢力を包摂した中身はポピュリズムファシズムに過ぎない気がする。
 政治的な統一のためには排除の論理で徒党を組んだ方が勝ち残りやすいからだという面もあるかもしれない。

個人の生き方としては感性の欠如を競ってどうするんだ、って良く思うんだけどどうなんだろう?