大学について

http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20041126#p3
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20041126#1101398063
に関連。
私は私立の大学の出身者ではないので、大学の予算総額を学生一人当たり年間○○万円とか出して煽るマスコミが多かったせいで、私大に進んだ高校時代の同級生によくうらやましがられた。しかし、大学の学生に提供するサービスの質とその金額にはあまり関係がない。いわゆる文系学部には卒業研究もなく、卒業まで100人単位の授業を受けて卒業していく学部が多い。理系の前半は文系とたいして変わらない講義を受け、比較的コストの高い実験の教育も受ける。しかし、実験で使われる機材や材料は非常に少ない予算をやりくりし、生物系の実験素材に至っては、助手と大学院生が無償労働でかき集めたり飼育したりしたものだったりした。理系の後期となると、30−50人の授業と実習があるが、これは主に学生用の実験設備(高校の理科室並みの)を使ったもので、まれに教官の研究用設備を使える程度。本格的な設備を使えるのは研究室配属後(場所によっては大学院に進んでから)だが、たいていの人はその設備を使って教官の研究のお手伝いをしている。会社で言えばOJTだ。
 ようするに、大学の予算は学生なんかに使われていなかった。僕らが接する教官が週5日のうち教育に割く時間は普通1日であるが、教官の半数は学生に接していなかったのでまぁ平均0.5日、10%だ。他の予算の使い道は主に教官の研究で学生に使われるのは5%もなかったろう。当時の文部省は「学生運動で荒れた設備の整備予算は出さない」という方針だったので建物はぼろぼろ(しかも多くは寄贈された資金で建造されたものだった)。多少研究ができるようになると、教官の手足として働けるようになる、そのために必要な勉強は自分の金でやる。抜け目のない教官はそういう学生の研究を自分の成果として発表する。ひどい教官は外部からの非常勤講師だったが、5名単位のグループレポートの提出を課してその秀作をそのまま単著論文として発表していた。私の指導教官は稀に見る立派な人で、使い物になる学生の研究は外部資金をとってきて、学生の名義で発表させ、それができない場合は給与を支払ってくれた。(今日では学生を学業に関係ない労働に従事させても給与の支払いは禁止らしいが。)
ものすごく恵まれていたと思うが、その資金は、私の教育のためではなく、依頼元が必要があって支出したものである。そんな状態で、たまに時間を見つけてお酒を飲んでいたら社会人から「俺たちの血税で勉強させてもらっているくせに生意気だ」、と絡まれた事もある。学生一人当たり年間○○万円の中には私が研究をして稼いでいた分も、学生に全く関係なく支出されるお金も加算されている。そういうお金だ。こっちにしてみれば、支払った授業料なみの「教育」すら受けた覚えがない。
 そして、大学が大学院大学になるとき、独立行政法人になるときに、大々的に教官の評価(研究実績を主とする)が行われたが、そのときの評価の結果は学生の研究を完全に剽窃する教官ほど評価が高く、もっとも低い評価を受けたのは「学生の自主的な研究は、たとえ指導で関与しても自分の名義としない」という教官だったと、評価を担当された方が嘆いていた。
そういうわけで、今日の独立行政法人大学は制度的にはアカデミックハラスメントや才能ある人格の蹂躙を推奨しながらも、教員の良心によってなんとか支えられていると考えている。
法科大学院は珍しく教育を目的として運営されているようなので見込みがあるのかもしれない。