最低を目指す社会

我が国が豊かな国であるという話は聞くけど、僕の居る場所からはどうも豊かな国っぽくは見えないなぁ。
「火災の下関駅スプリンクラーなし」
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060108/K2006010700224.html
というニュースを見た。
 JR西は下関駅に商業施設を作る時に、スプリンクラーを設置しないでも良い最大の売り場面積をビルに持たせたのかな?と思った。もしそうだとすると、消防に関する法を満たす「最低の商業施設」を志向していた事になる。
 建築基準とか、環境基準の類は別に推奨規定とかじゃなくて、最低基準って法律にも書いてあるような気がした。ところがこの手の最低基準を満たしているから文句を言うな的な意見が多いんだよね、最近。
 もちろん遵法というのは大事な事で、きちんと法律を守って建築物をたてるのだって、結構難しいしお金がかかる。でも、けして目標にすべき物ではない気がするのだ。最低である事が目的になってしまうのは大変危険な気がする。
 耐震偽装事件みたいに、「最低」か「最低にも満たない」かの争いがあると、かなり多くの人が「うちの建物は大丈夫?」なんて疑問をもつ。確認したければ金を払って専門家に見てもらわないといけないんだけど、それでわかるのが「最低か、最低未満か」だとつまんないよね。
 どんな地震がきても大丈夫な建物なんてない。建築基準を満たすその先にはいくつもの方向性がある。ともかく壊れない事を目指す。揺れない事を目指す。中の人、外の人を傷つけない壊れ方をさせるために構造的な弱点を作る、などなど....最低を超えたとたんに無限の工夫がありうる。
 最低の基準に近づけるために最大限の努力をするのは、なんだかスゴくむなしい。
 偽装事件に絡んで鉄筋を少なくしても地震で壊れない建物を建てられる有名な構造建築家がいて、「すげー!」と思った。でも、そうやって作り出した余裕で何ができたかということに目を向けるようにしないと、未来が明るい物に見えてこない気がする。

 景気がなんとか持ち直しつつある今、せめて「ちょっと上を見て生きていける社会」があるといいなぁと思う。