必要なのは庭師か?

小泉改革の総括記事みたいなのが新聞に多く出ている。日経新聞小泉改革、中でも竹中氏支持の寄稿記事の中にちょっと目を引く文言があった。
実際の経済に寄与する経済学者が求められるという話の中で「植物学者ばかりで庭師がいなくなった」という比喩があったのだ。
庭師の仕事は3つあって、庭を造ること、時間をかけてよい状態を導く事、そして良い状態を凍結的に長期間持続させる事だ。だいたい第一段階に数ヶ月から数年、第二段階に10年から20年、第三段階はその後可能な限り長くというタイムスケールだ。最終段階は一種のゼロサム状態にあり、そこでは「成長の抑止」が重要な技術になる。ゼロサムを目標にする庭師がはたして比喩として適当なんだろうか、なんて疑問がまずわいた。経済の持続的成長のようなものを例えるなら林学者だろうなぁ。
で、庭師とか林業技術者はずっといたし、その研究をしてる人もずっといた。けど、政府のお仕事は植物学者にとられっぱなしかもしんない。

例えば環境省の国立公園管理事務所にいるレンジャー、これはその昔は庭師の高等教育受けたI種の人たちだったけど、今は生物学をやった人を採用している。日本では自然保護や保全の実務について、生物学の人たちは愛護とか保護運動とかはやってるけど、ほぼ無能で、どんな実務が存在するのかも知らないのが普通。(自然環境の保全というときの「保全」は庭師の世界の人が翻訳した語だ。植物については造園学が、動物については獣医学が主に日本の自然保護や自然環境の保全の実務をやってきた。)多分国家公務員を採用する側も、実務と学問の関連性がわかってないので庭師を駆逐して植物学者を大量採用してるわけだ。

脇道が長くなったけれど、国の経済について実務をやってきたのは、きっと経済学者じゃないし、その理論的バックボーンは基礎学問としての経済学と少し違う所にあるだろう。で、「植物学者ばかりで庭師がいなくなった」という事が経済分野についても言えるのならば、「庭師の意味が人事をする人にわからなくなった」ので現場から駆逐したあげくに、いなくなったから「庭仕事が好きな植物学者」が素人仕事をしたという事になるのだろうか、とえらく心配になるようなたとえ話だった。