普通じゃないヒトの居場所がない件について

bewaadさんが刑務所がハンディキャップドの人々の受け皿になっている件について書いていたので、

知的障害にしろ、発達障害にしろ、身体障害者にしろ正常との境界が連続的なので(というよりうまくいってれば正常という定義)法律上の定義は本質的にはあまり意味がないと思っています。
 世の中の9割の人が二階にジャンプして上がれるのなら、階段が必要な私は身体障害者でしょう。それでも、一割の人のために階段を作る余裕があれば、特別の福祉は必要ない。
 多くの人が適応できる社会を作らないと福祉ではカバーしきれない気がします。

なぁんてノーマ「リ」ゼーション*1についてちょっと考えた事があるってだけの浅薄な考えを披露してしまったのだけれど、

>kumakuma1967さん
結局は、健常者と自認する者にとって、その認識の正否は脇に置くとしても、自分が交通事故等により障碍を持つ身となる可能性、あるいは自分の子どもがそのように(先天的であれ後天的であれ)なってしまうことへの想像力がどれだけ及ぶかということなのかな、という気がします。境界のあやふやさに無自覚であっても、そこの認識があれば理解は変わってくるのかな、と思うのですが。

http://bewaad.com/20061205.html#c16
とのお答えを頂いた。

さらなるツッコミを入れるのもなんなのでこっちで書いておく。

結論から言うと可能性の想像なんてする必要ありません。
少なくともコドモってのは労働能力もなければ言葉も不自由で視野狭窄だし判断力も決定的に欠けてます。どう見てもハンディキャップドです。

自分の今後ということを考えると「そうなるかもしれない」ですが、過去を見れば「みんなそうだった」んです。

たとえば、ノーマリゼーションの技術であるユニバーサルデザインとか、バリアフリーがいきわたって母親がコドモ二人と手をつないで歩ける歩道ができれば、車いすだって通れるし、そこで「特別の支援」を必要にする人の数はぐっと減ります。そのことによって初めて「特別の支援」を惜しまないで済む体制の持続性を社会が持つ事になるのではないでしょうか。

そういう人たちを切り捨てていけば生産性が上がるなんてことを続けて「特別の支援が必要なヒト」だらけになってる。その表象がbewaadさんのご指摘になった現実だと思う次第です。

余談ですが一般社会にハンディキャップドの居場所がないというのはコドモの居場所がないのと同義です。減ったとはいえ、コドモがたくさんいますので、社会から締め出すわけにもいかないです。コドモには特別の居場所として学校を用意したからよい、では済みません*2

*1:主として北ヨーロッパで議論されていた時にはノーマリゼーションと呼ばれていた。ノーマリゼーション思想がアメリカナイズされた物がノーマライゼーションで、障碍を持つアメリカ人法(ADA)以降にこの問題に取り組み始めた日本政府は原則ノーマライゼーション思想の立場をとる。

*2:済まないんだよ>JR東日本。スイカ専用改札増やす前にとっととコドモ用スイカ出しやがれ。通る時にいちいちコドモに「特別の支援」するのめんどくさいんだよ。