渋滞実験について考えをまとめてみる
用語法が不統一で自分でもわけがわからなくなったので、
新聞記事
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK200803040038.html
論文
http://www.iop.org/EJ/abstract/1367-2630/10/3/033001/
について考えた事を少し考え直す。
関連エントリは
http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20080307#p2
http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20080308#p1
http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20080308#p2
http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20080308#p3
http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20080308#p4
まず私にとって不幸であったのは新聞記事から入り*1、掲載サイトの見出しを読んでから論文本文を読んだ事で、「論文から先に読んでいれば」もっと印象は良かったに違いない。しかし、客観的ではないのではないかと我ながら思いつつも、エディターや査読者でもない限りはこういう順番で読むだろうと開き直ってもいる。*2
次に、私は物理学者じゃないような気がするけど、この論文は本質的にスゴい内容を含んでいそうだと思う。もし自分が査読者なら、改善すべき点がいくらあってもリジェクトせず、改善の方針を一生懸命示して、自分が参画してるコミュニティのレベルを上げる方向で努力するだろうという事も認めなくちゃいけない。アクセプトすべきだけど、AS ISじゃないかもしれないというレベルの不満である。
自分が査読者である時に一生懸命改善を目指したメッセージを出しても、十分な改善が見られないという事はままあるので、時間的な制限などによってAS ISで掲載するかリジェクトするかで選択を迫られれば「もったいない」という断腸の思いでAS ISでの掲載を飲むだろう。そのくらいスゴい論文だと思っている。*3
残念だと思っている事は、主に何かと言うと、この論文の読者によって現在の社会システムとそれを構築する人々に対する理解なしに批判が展開されるだろう事、そして著者がその事を期待している事が見え見えな事だ。著者たちの社会システムへの理解も、車社会の社会人レベルでクビをかしげざるをえないし。
たとえば実験のように車両が同一であれば、著者らが焦点にしている「密度」は「車間距離」を固定すれば一意に定まる。非常に重要な部分に近い用語なのに新聞記事は現在の日本で主に通用しているのと、別の定義で車間距離を用いているし、その事について著者の一人のブログも特に問題を感じていないようなのである。実社会とのつながりをきちんと考えた上でやってんのか?と疑問を持っている。
また、西成氏の「渋滞学」でもこの実験でも、実際の道路上でドライバーが法令を遵守している状態での渋滞はとりあつかってない。いずれも「免許試験場で検定中であれば一回で−10点をくらい、三回やれば検定中止という車間距離」の半分以下での渋滞しか観測してないようだ。*4
この実験の走行も、西成氏の書籍にある渋滞が発生している走行も、免許をとってから公道上でやれば、実際に刑法犯として処罰されることは稀であっても刑法犯罪であると思うがどうなんだろう?
渋滞はインフラストラクチュアの問題ではなく、コンプライアンス*5の問題なんだろうというのが、一連の研究から私が裏付けてもらった事だ。*6
では社会システムに引き戻してボトルネック対策ばかりしている道路整備関係者の立場で読み直せば、違法な走行を容認するような道路設計というのはコストも高いし、正義にも反するだろうからボトルネック対策をする事の方が密度対策に優先する事は正当ではないのだろうか。でもボトルネック対策に批判が集まる事は著者の皆さん織り込み済みですよね。
残念な別の話として、研究者倫理の問題がある。研究自体の価値とは直接関係がないかもしれないが、いらぬ批判をうけないよう、この種の人を使った実験では「倫理委員会等による審査」と「論文から審査までのトレーサビリティの確保」はあるべきだろう。花の匂いを人にかがすだけでも倫理委員会の審査を受けるご時世がいいかどうかはともかく、そんな事で潰されていい研究じゃないでしょう。
追記:id:BUNTENさんありがとう。意図に添えたかどうかはともかく、いろいろなご指摘が考えを整理する助けになりました。