うだつについてもうちょっと

http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20090708/p1のつづき。
単なる夢想かもしれないけど、うだつをネタに規制緩和とか市場化についてもうちっと考えてみる。

元ネタ(http://anond.hatelabo.jp/20090707071946)の増田氏

何故現行の法律でスプリンクラーの設置義務がないのか?という問いには、おそらく法律を作った役人は
「ただなんとなく。しかしどこかで線引きはしないといけなかった」
と答えるんじゃないだろうか。

の部分も噛めば噛むほど味が出ると言うか.....

 うだつを上げる/スプリンクラーを設置する事は義務じゃないけど、みんながうだつをあげなくちゃ/スプリンクラーをつけなくちゃいけないと思ってるような、「うだつ経済」は、法定の最低基準を超えて設備を備えているかどうかが問題にされてる自由競争に近い市場経済なんだね。
 うだつ経済における規制の意味は、このラインを下回ったら市場から退場して下さい、っていう早期退場ルールであって、ゾンビのスクラップの仕事をしているに過ぎないんじゃないかな。

 例えば貸し切りバス会社がサービスや安全性を法定基準を超えて競っていれば、規制内容で競争が規程される影響は少なくてすむ。そういう中でたまたま左前になっちゃってサービスが維持できない会社が出てくると、運が悪ければ、運転手に過労運転させて事故って会社が潰れるわけだけど、非常に運がよければ運転手に過労運転させる前に会社をたたむ決心がつくだろうし、運がよければ行政が介入して会社を潰す事もできる。

 そういう社会で法律を決める役人が水準を決めるとしたら、1)本当に致命的な事態が確実に発生する可能性と予防できる可能性、2)それを予防できる措置をとれる人が何%いるか、で線引きするんじゃないかな。
 たとえスプリンクラーが致命的な事態を防げる事がわかっていても、10%のビル所有者や店舗が退場しちゃうような規制は出来ない、とかね。

 ところがどっこい、不景気とかで社会全体でうだつがあがらない人が増えてくると、今度は法律の基準が問題になって、規制が社会のあり方を決めてしまう規制社会になる。うだつをあげるどころか、昔からある規制基準も守れなくなって、規制を緩めざるを得なくなってくる。

 そういう状況で規制が緩和されても、値下げ競争のための規制緩和である限り法律の最低水準にとらわれ続けてどこまで緩和してもきりがない、がんじがらめの息苦しさが続く、というのが小泉政権時代に経験された事なんじゃないか、と思う。

 低金利によるゾンビ企業の存続、というのをどこぞの人が喧伝してたけど、規制緩和による絶対にうだつなんかあげる気のないゾンビ企業*1の方が恐ろしい気がする。

 どんどん規制も緩和されるけど、どんどん規制にがんじがらめになっていく。どんどん自由競争市場から遠ざかっていく。ノウハウや蓄積された資本がどんどん無価値になっていく。まちがってるかもしれないけど、これがぼくの近年のカイカクのイメージ。

 逆に、みんながうだつをあげるようになって、誰も最低基準なんて相手にしなくなれば、市場はどんどん自由になっていくのではないだろうか。

*1:たとえば、「これは高速バスではなくてツアーバスです」と言いつつ、新聞社に「高速バス大手」と書かれるツアー会社が、公共事業減で食い詰めた砂利トラの会社が資本もノウハウもないのに規制緩和されたバス事業に参入したのをチャーターして定期運行してるような状況。