母校の文化祭にて統計について考える

娘が後輩になっているので、母校の文化祭に行ってみたら、後輩に見つかってしまった。今までの人生の前半に属する少しだけの時間を共有した人が今でも私を私と認識するというのはちょっと恐ろしい話でもある。
 後輩もまた親になっていて、子の将来を心配していた。「受験」って奴の事だ。
たとえ倍率や偏差値がどうであれ、私やそれに続く10年間にわたる世代が経験した受験に比べると、現在の受験はそれを意識して重点化しなければいけないほど深刻ではないと思っているので、今は何を学ばせたいかとか、何を経験させたいかという事の方を優先させられる余裕のある時代だと話した。
 例えば激化していると言われる中学受験であるが、我々の世代の東京ではたかだか5%程度の小学生が受験しているに過ぎなかった。それが今は2割である。母集団そのものが大きくなっているのだ。当時偏差値60の学校があって今偏差値60を保っていたとしても、入りやすくなっているのではないだろうか。
 大学受験についてはもっと緩くなっている。我々の時代には高校卒業者の30%しか大学に進まなかった。学業成績の順に大学を選ぶという事はなかったが、ある程度名の通った大学を出ていると人生が有利ということは認識されていたように思う。
 それが今や大学全入時代で、49%もの進学率がある。同じ偏差値60を保つ大学でもものすごい勢いで入りやすくなってるのだ。学力は入学後の勉強の質を左右するから、分不相応な大学に進学してもしょうがない。分相応な大学に入るための特別な努力は昔ほど要求されていないのではないかと思うというような事だ。

 そこでふと、宙ぶらりんになったまま存続が決まった「教育再生会議」の事を思った。以前*1から、ゆとり教育*2の評価について客観性を欠いていると思っていたのだが、ひょっとしてこの会議の中の大学人たちは、自分たちの大学が偏差値や難易度ランキングの数値を保っているのに入学者の学力が低下して、その原因を義務教育と高校教育の課程の問題だと勘違いしているのではないかと心配になった。
この15年で大学入試模試の偏差値が上昇しなかった大学は、非常に入りやすく、また学力のセレクションは緩くなっている。
ノーベル賞受賞者を座長とする会議体が、母集団からのサンプリング方法を完全に変更しても偏差値の意味が保存されると思っているのなら、大変に滑稽で、恐ろしい事態なのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kumakuma1967/20070528#p1

*2:客観的には高校生の学力を低下させていない